『シャガール わが回想』

■芸術家の名言・格言 『シャガール わが回想』


ただ自分の論理と理性を持つ真摯な心だけが自由なのだ。
文学が不条理であろうとも、
最も純粋であると人々に言われる段階にまで達したのは、
魂それ自身によったのである。



私を幻想的と呼ばないでほしい。
反対に私はレアリストなのだ。
私は大地を愛している。


個人的には、私は科学的な傾向は芸術にとって喜ぶべきものとは考えていない。
印象主義も立体主義も私には無縁のものだ。
芸術はとくに魂のあり方なのだと私には思われる。
すべての人の魂は神聖なもので、
地上どこにでもいるすべての両足動物の魂は神聖だ。
ただ自分の論理と理性を持つ真摯な心だけが自由なのだ。
文学が不条理であろうとも、
最も純粋であると人々に言われる段階にまで達したのは、魂それ自身によったのである。


ただ神のみが手をかして、私は自分の絵の前で、真実の涙を流すのだ。
私の絵に、私の皺、私の蒼白の顔色が残り、
そこに、永遠に流動する私の魂が止まるだろう。




シャガール わが回想】より

シャガール わが回想
シャガール わが回想
マルク・シャガール, 三輪 福松, 村上 陽通




■補足
Marc Chagall(1887-1985)
マルク・シャガールは、ユダヤ人でロシア出身の画家。
主にフランスで活躍。

『シャガール わが回想』は、
1931年に描かれた自伝。
自分の出来事とその時々の心情が語られているのですが、
詩的で、象徴的な部分があるので、
多少読みにくいところがあるかもしれません。

たとえば次のような感じです。


おまえ、裸で十字架に掛けられた牝牛よ、おまえは天国でいろいろと夢を見るんだね。


すべての色はひっくり返り、酒になり、私の絵は酒をふき出す。


私は芸術家ではない。そうだ、一匹の牝牛だ。




ちなみに、シャガールは、
バレエ・リュスの舞台美術を担当していたレオン・バクストに師事していました。


「今の、きみの色は歌を歌っている」


なんてバクストはシャガールに対して語っていたりします。


また、レオン・バクストに師事していたことも関係あって、
ニジンスキー(伝説的なバレエダンサー)などとも交流がありました。
シャガールの隣でニジンスキーが絵を描いているなんて情景もあったようです。

バレエ・リュスは当時の前衛的な芸術家に愛されていましたが、
若い頃のシャガールもよくバレエ・リュスの舞台を鑑賞しに行ったようです。
シャガールの絵は人間だけでなく、
様々なものが飛翔しているのところが特徴の一つだと思いますが、
多少バレエの影響があるのかもしれません。


シャガールの絵はとても幻想的ですが、
幻視者ウィリアム・ブレイク等の絵とも類似性があるように思います。
彼自身も時々不思議な夢や幻視的なものを見るようなところがあったようです。

その例の一つを以下に引用してみます。


急に天井があいて、光とひどい音をたてて翼のある人が降りる。
部屋は動揺と雲でいっぱいになる。
引きずった翼の触れあう音。
私は考えた。
天使だ! 眼を開けることができない。
あまりにも明るすぎ、眩しすぎる。
天使はすっかり調べてから、
すべての光と青い空気を持って天井の裂け目から昇って行く。
また暗くなる。私は目がさめた。



ちなみに、この夢を再現した『出現』という作品があります。

『出現(L'APPARITION)』





『ショパンの手紙』

■芸術家・音楽家の名言・格言 『ショパンの手紙』


だからまず完璧というのはたくさんいますから、
人びとはそれでは満足しないのです。
成功に必要なのは完全無欠です。
だから極端にまで研究し尽くされ、また評価されるのです。
byショパン



常識というが、これは非常に小さな要素に違いない。
というのは常識がぼくの頭から
すべてのほかの考えを引き出すほど強力なものではないのだから。
byショパン


国には固有の風土があるように、その国のメロディーがあります。
丘、森、川、牧場は、その固有の、本来の声をもっています。
byステファン・ヴィトフィツキ


いやしくも有用な仕事をなさんとする者は、
精神が自由でなければなりません。
byステファン・ヴィトフィツキ


どんな人にせよ、またどんな民族にせよ、
それを乗り越えることのできない、完全な模範となってはならぬのです。
永遠にして目には見えない自然の女神こそがその模範たり得るので、
自然の女神は自らのなかにそれを包蔵されているのです。
byヨーゼフ・エルスナー





ショパンの手紙】より

ショパンの手紙
ショパンの手紙
ショパン, アーサー・ヘドレイ, 小松 雄一郎




■補足

Frederic Francois Chopin(1810?-1849)
フレデリック・フランソワ・ショパンはポーランドの音楽家、作曲家。
数多くのピアノ曲を残しています。

『ショパンの手紙』はショパンの書簡集。

ちなみにショパンの手紙には、贋作書簡論争があったそうで、
それに関する
『贋作ショパンの手紙』
という本があるそうです。

『ショパンの手紙』では全体的にやや神経質ではあるけれど、
随分温厚な人柄という印象ですが、
『贋作ショパンの手紙』ではかなり過激に人を攻撃したり、
下品な言葉遣いをしています。

例えばリストに対しては、


リストが手を加えた他人の作品は枝から落ちたプラムです。
それもト長調に落ちたなら…まだしも、
いつだってト短調に落ちるのですから、プラムはぐちゃぐちゃです。



また、シューマンとベルリオーズに対しては、


シューマンとベルリオーズを一纏めに引っ括ってやりたいです。
二人して雲の下、ファンタジーのうちを飛ぶがいい。
そして墜落し、地上に叩きつけられるのがいいのです。
叩きつけられれば、我に返り正気を取り戻すこともあるでしょう。



>>ショパンの“偽”手紙騒動より


とてもショパンの書簡と思えない内容のものばかりですが、
興味のある方は一読されてみては。
中に本物が混ざっているかも知れません。


あと現在PTNAというサイトで連載中のショパンの漫画がありました。
林 倫恵子【ショパン物語】
キャラクターが相当デフォルメされていますが、なかなか面白いです。





『声の力』

■声・歌についての名言・格言 『声の力』



人生を謳歌するなどという表現もあるのですが、
自分の人生ということを語るだけではなくて、
歌うということも考えてみれば面白いのではないでしょうか。
by河合隼雄



小さな声で歌うからといって、
感情のテンションを下げてしまったのでは、
“ピアノ”の表現にならないわけです。
“フォルテ”の時より、さらに強い表現意欲を持ち、
積極的に内容を伝えようという気持ちで、小さな声で歌う。
これが“ピアノ”で演奏するということなのです。
…生活のなかでも、大事なことを大きな声で喋っている人はいません。
人間の自然な心理なのでしょう。
by池田直樹


歌う前に白い息を吸わない。
つまり怒る歌を歌う時には必ずその前に怒る息が入って歌う。
笑うときには笑う息が入って歌いだす。
悲しいときには悲しい息が入って、その悲しい歌が始まる。
白い息を吸って、声が出た瞬間から表情が始まるのではない。
by池田直樹


聴覚は、すごく触覚的な感覚だと思うんです。
音波は鼓膜に触れるわけだから。
それを通してからだに入ってくる。
文字と声は、その違いがすごく大きいんじゃないかなと思います。
by谷川俊太郎


「みみをすます」ということ。
自分の心とからだの内部の、
他の声や音を聞くことのできる静けさというのか、
そういうものも大切ですね。
by谷川俊太郎





河合隼雄,阪田寛夫,谷川俊太郎,池田直樹【声の力】より

声の力―歌・語り・子ども
声の力―歌・語り・子ども




■補足

『声の力』は、
ユング派の臨床心理学者の河合隼雄氏、
童謡作家の阪田寛夫氏、
詩人の谷川俊太郎氏、
声楽家の池田直樹氏、
の四人による“声の力”をテーマにしたセミナーの講演録。

まとまった理論が述べられているわけではありませんが、
四人の各自の専門や体験からの切り口が面白く、
興味深く読める一冊です。



『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 下』

■芸術家の格言・名言『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 下』

 

 

 

 

自然の中には理法なき結果は何ひとつ存在しない。
理法を理解せよ、そうすればおまえの経験は必要ではない。



その理論が経験によって確証されないあの思索家たちの教訓を避けよ。


おお万象の思索家たちよ、
普通自然のおのずから導き出す物を知って自慢するな。
おまえの頭脳によって工夫されたものの目的を認識することをよろこべ。


自然は、経験の中に
いまだかつて存在したことのない無限の理法にみちている。


自然は自己の法則を破らない。


必然性は自然の眼目にして作者、手綱にして永遠の掟である。


科学は将校であり、実践は兵である。


数学者でないものには、私の原理は読めない。


過度の風は焔を殺し、過度の風は焔を養う。


あらゆるものの部分はそれ自身のうちに全体の性質を保っている。





レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 下】より

レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 下    岩波文庫 青 550-2
レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 下  岩波文庫 青 550-2
レオナルド ダ・ヴィンチ, 杉浦 明平

 

 

 


■補足

 

 

 

 

 

『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』については、
以前の記事レオナルド・ダ・ヴィンチの手記・上で説明しています。

芸術の世界でよく"自然から学ぶ"という言葉が使われます。
ダ・ヴィンチも自然という言葉を多く使用しています。

ただ、ここでの自然という言葉は、
"山や森や湖"みたいな意味ではなく、
そういったものすべて(人間も宇宙も)を含んでいる世界と、
それらを動かしている法則そのものの総体、
といった意味合いになっているので注意が必要です。

ダ・ヴィンチは、その自然の"理法"を様々な方法で探究しています。
そしてその探究の多くは絵画と結び付けて考えていたようです。

ダ・ヴィンチは、数学の研究、複雑な構造物の設計、
また天体観測等を多くしていますが、
星々や月や宇宙を描いているわけでもないのに、
天体観測なんて絵画の何の役に立つのかと考えてしまうかも知れません。
そのほか数学への傾倒など、
一見絵画に結びつかなそうに思えます。

しかし、手記を読んでいくと、ダ・ヴィンチの天体の観察や数学の研究は、
完璧な遠近法を理解することに結び付いていたことが分かります。

ダ・ヴィンチは芸術の中で絵画を至上のものとしていましたが、
それはなぜかというと、
"遠近法"は絵画芸術を手工芸のレベルから、
文学や哲学、科学などと同等に、
あるいはそれ以上に知的なものに引き上げた、
という認識をしていたからです。

付け加えるとダ・ヴィンチは、"明暗法"も、
絵画の地位を高めたものとして認識しています。
ダ・ヴィンチは眼球の解剖や太陽の観察、
光の現象の研究等を通して"明暗法"を探究しています。

"遠近法" "明暗法"とは、
芸術を至上のものに高めた非常に深遠な力をもったもの、
といったところで、
膨大なダ・ヴィンチの研究の背後には、
絵画の基本であるところの、
"遠近法""明暗法"があったように思えるのです。

最後に、ダ・ヴィンチにとっての絵画を説明しているものとして、
次の言葉を紹介します。
 

まず影のある物体とは何であるか、基本的な影、派生的な影とは何であるか、
明り(すなわち闇、光、色彩)物体、形象、位置、遠近、
運動と停止とは何であるかを定めるが、
以上のことは、手の操作を経ず、もっぱら頭脳によってのみ把握されるのである。
そしてこれが絵画科学であって、その観照者の脳裡に存し、
やがてその観照ないし科学よりはるかに尊い操作がそこから生じるのである。


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『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上』

■芸術家の名言・格言『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上』

 

 

 

 

画家の心は鏡に似ることを願わねばならぬ。



経験の弟子レオナルド・ダ・ヴィンチ。


知識が確実になるに従って愛も熱烈になる。


失われうるものを富と呼んではならない。
徳こそ本当のわれわれの財産で、
それを所有する人の本当の褒美なのである。


最高の幸福は不幸の総元締、智慧の完成は愚鈍のもと。


経験は決して誤らない。
ただ諸君の判断が、
われわれの経験の中に原因を有しないような結果を
自分勝手に解釈して、誤ったのである。


食欲なくして食べることが健康に害あるがごとく、
欲望を伴わぬ勉強は記憶をそこない、記憶したことを保存しない。


ほめれば間違いだし、そしればなおわるい。
君がそのことをよく理解していないときには。


十分に終わりのことを考えよ。
まず最初に終わりを考慮せよ。


“幸福”が来たら、ためらわず前髪をつかめ、うしろは禿げているからね。


必要であればあるほど拒まれるものがある。
それは忠告だ。
それを余計に必要とする人すなわち無智な人々からいやがられる。
こわがればこわがるほど、逃げれば逃げるほど、近くによってくるものがある。
それは貧窮だ。
逃げれば逃げるほど、君は悲惨になり安らぎをうしなう。


なべての闇を打ち消す太陽があらわれると、
君は君の必要と便利のために闇を追っ払ってくれた灯を消す。


はじめる人は必ずしも守る人ではない。


悪を罰しないものは悪をなせと命じているのだ。


自由のあるところに秩序はない。


贈物をする人は、じぶんのお仕着せを贈らないものだ。


恐怖は生命を保証する。


脅迫とはひとえに脅えた者の武器にすぎない。


快楽のうしろには面倒と悔恨をもたらすものがついている


孤独であることは救われることである。


あたかもよくすごした一日が安らかな眠りを与えるように、
よく用いられた一生は安らかな死を与える。


希望が死ぬと願掛けが生まれる。


素描というものは、ただ自然の作品のみならず、
自然のつくるものを超えて限りないものを追求するほど立派である。


“絵画”は無限の思索で飾られている。


画家は万能でなければ賞賛に値しない。
…画家の心は鏡に似ることを願わねばならぬ。
鏡はつねに自分が対象としてもつものの色に変わり、
自分の前におかれるものそのままの映像によって自己を満たすものである。


画家は“自然”を師としなければならぬ。


しばしば人物画は工人自らに似ている


人物を描くひとは、
もしかれが対象になり切ることができないなら、
これをつくりえないであろう。


影を避けるものは高貴な天才仲間における芸術の栄光をさけて、
無智な俗衆仲間で栄光をもとめるものだ。
俗衆は、平らなものを浮上させて見せる美と不思議さをすっかり忘れて、
色彩の美以上に何一つ望まないのである。


あらゆる色彩は影よりも光に当たる部分の方が美しい。





レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上】より

レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上   岩波文庫 青 550-1
レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上 岩波文庫 青 550-1
レオナルド ダ・ヴィンチ, 杉浦 明平

 

 

 


■補足

 

 

 

 

 

 

 

 

Leonardo da Vinci(1452-1519)
レオナルド・ダ・ヴィンチ。言わずと知れた万能の天才。

ルネサンス期の美術家達は大概の場合万能人でありましたが、
ダ・ヴィンチは突出していました。
画家であり、科学者、建築家、彫刻家…
さらには類まれな音楽的な才能も兼ねていたそうです。
それは、ミラノにスフォルツァ宮廷に招かれた一つの理由が、
リラの演奏家であり、即興歌手として評判であったというところから分かります。

このように様々な知識や技能を身に付けていたが、
その生涯を科学に費やしたといっても過言ではないほど、
さまざまな実験や観測を繰り返していました。
実際、人体の解剖のみならず、
天体の観測など様々な事物や状況を観察し、
それらをノートに記していました。
レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上はそのノートから抜粋したものです。

これらの森羅万象を解明しようとする努力は、
ダ・ヴィンチが画家として、対象をありのまま写す鏡を理想とし、
鏡の如くなることを目標としていたことに繋がっています。

ダ・ヴィンチは

 
画家は万能でなければ賞賛に値しない。
…画家の心は鏡に似ることを願わねばならぬ。

人物を描く人は、
もし彼が対象になり切ることがことができないなら、
これをつくりえないであろう

絵画の内容となるあらゆるものを
等しく愛さない人は万能とはいえないだろう



と自らの手記に記述しています。
これらの言葉から、森羅万象を観察し、鏡の如く写そうと努力していた、
“画家”ダ・ヴィンチの姿が見えてくるように思います。

 

 

 

 

 

 


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ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」F15号【名画ドットネット】
レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クロード・モネ

■芸術家の名言・格言『モネ』



すべては千変万化する。石でさえも
byクロード・モネ





【週間グレート・アーティスト3-モネ】より




■補足
Claude Monet(1840-1926)
クロード・モネは19世紀フランスの画家。印象派の代表格。
主な作品に『印象、日の出』『日傘を差す女』『積みわら』
『ルーアン大聖堂』『ポプラ並木』『睡蓮』などがあります。



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【モネの複製画】
名画ドットネット
モネ「パラソルをさす女」【名画ドットネット】
モネ『日傘をさす婦人』

千住博『絵を描く悦び』

■芸術家の名言・格言『絵を描く悦び』



良いものはすべてずっと前からあっても
おかしくないと思われるような、
そんな普通で確かなものです。



絵はいわば心の鏡です


絵というのは、結局夢中で描いていたところだけが
その絵を面白くさせているものなのです。


絵は、憧れを描くものです


“りんごを二個描く”とは、
二つのりんごのつくり出す“あきの形”を描くことです


凡庸と自然とは違います。
自然は魅力に満ちています。非凡の連続です。
しかし平凡、凡庸とは面白くないことです。


そもそも絵とは何かの答えではありません。問いかけなのです。
…宇宙や神に対する質問の歴史が芸術の歴史なのです。
答えの歴史ではないのです。
だからこそそこにはすべてを超えた人類の共通の姿が出てくるのです。


魅力的な絵は隅から隅まで魅力的なものです。
これは完璧への挑戦なのです。


むしろ私は、“質より量だ”と考えています。
質の高いものというのは、量を描いている中に、
偶然混じっているものだからです。


絵を描いて疲れたら絵を描いて疲れを癒す。
風邪をひいたら絵を描いて治す。
自分の作品に癒されなくて、
勇気や元気を与えられなくて、
どうして他の人を癒したりできるでしょう。


何事にも一番の近道があるはずです。それを人は技巧と呼ぶのです。


絵を描くということは、
描くという行為によってのみつかむことのできる
私だけの実感を何とかして伝えてゆくということなのです。


自分の中から、“癖っぽさ”や“あく”、
“性格的なこだわり”とか“思い込み”、
これをどうやって取り除いていくか。
そのあと、ここには“個性”が美しく残ります


自信とは徹底的にやったということです。





千住博【絵を描く悦び】より

千住博の美術の授業 絵を描く悦び
千住博の美術の授業 絵を描く悦び
千住 博




■補足
絵を描く悦びの著者・千住博氏は“ウォーターフォール”
という作品で世界的にも評価の高い現代日本画家。
弟に作曲家の千住明、妹にバイオリニストの千住真理子という
芸術家兄弟の長男です。
絵を描く悦びの前半はやや、
美大受験生や美大生向けの内容ですが、
世界に通用する芸術家の芸術観、
深い見識が伝わる内容になっています。

ミヒャエル・エンデvsヨーゼフ・ボイス『芸術と政治をめぐる対話』

■芸術家の名言・格言『芸術と政治をめぐる対話』



人間は、いちばん人間的である場所で、
つまり創造の場で、因果の鎖に縛られてはいません。
byミヒャエル・エンデ



しかし私は、この人間像こそが
…したがって世界像もですが
…創られるべきだと思うのです。
そこにこそ、作家の、あるいは画家などの、
まさに課題があるのではないでしょうか。
byミヒャエル・エンデ


経済のことを考えるだけでは、《経済》を救うことはできない。
《経済》を救うには、《経済》以外のものが必要です。
byミヒャエル・エンデ


ほとんどすべての芸術や文学の仕事は、
それまで名前をもっていなかった事柄に、
名前をつけることなんですよ。
byミヒャエル・エンデ


何人かの作家や芸術家は、ここに存在して、
人類共有の財産になりうるなにかを、つくろうとしているわけです。
・・・存在していることがいい、というだけの理由で。
byミヒャエル・エンデ


いい作品が生まれれば、
その作品が存在するというだけで、
世界は変革されるのです。
byミヒャエル・エンデ





ミヒャエル・エンデvsヨーゼフ・ボイス『芸術と政治をめぐる対話』より

芸術と政治をめぐる対話
芸術と政治をめぐる対話
ミヒャエル・エンデ, ヨーゼフ・ボイス, 丘沢 静也, Michael Ende




■補足
ヨーゼフ・ボイスとミヒャエル・エンデの対話本です。
対話というより、かなり議論が白熱して対決本といった内容になっています。
ボイスは熱情家で皮肉がうまく攻撃的、
対してエンデは冷静で思慮深い発言をしています。

『芸術と政治をめぐる対話』とありますが、
いわゆる政治家の政治というわけではなく、
「芸術の社会的な役割」あるいは「芸術とはなにか」
というテーマが対話の中心になっています。


エンデの言葉ばかりのせましたので、
最後にボイスの一言を紹介します。


なんでも可能ってことは、すべてが不可能ということさ。
byヨーゼフ・ボイス



解説ヴァイヴァン「新装版・25人の画家」-1アングル

■芸術家の名言・格言 ドミニク・アングル



芸術は高邁な思想と高貴な情熱によって養われる。
気力と情熱をもって!
人は熱で死ぬことはないが、冷たさで死ぬことはあるものだ。



美の秘密は真実を通して発見せねばならない。
古代人たちは何かを創造し作り上げたのではなく、
認識しただけなのである。


芸術は二つは存在しない。それはただ一つである。


私は模倣しつつ独創的であることが自分にはできると思う。
いったい偉大な人々で模倣しなかった者があるだろうか?


常に自然を写し、それをよく見ることを修得せねばならない。
古代人や巨匠たちをまなぶことが必要なのはそのためであって、
彼らを模倣するためではない。
もう一度言おう、それは見ることを学ぶためである。




解説ヴァイヴァン「新装版・25人の画家」-1アングル】より

アングル
アングル
鈴木 杜幾子, 高階 秀爾




■補足
Jean Auguste Dominique Ingres(1780-1867)
ドミニク・アングルは、19世紀フランス新古典主義の画家。
ロマン主義の代表的な画家・ドラクロアのライバル的存在。
非常にアカデミックな作風でありながら、
後のピカソやマティス等にも影響を与えていたりしています。
代表作は『トルコ風呂』『グランド・オダリスク』『泉』など。

解説ヴァイヴァン「新装版・25人の画家」-3コロー

■芸術家の名言・格言 カミーユ・コロー



もしあなたが善良な心を持っているなら、
それは常にあなたの作品の中に現れるだろう。



(ドラクロワの作品を前にして、)
これは鷲だ。私は雲雀にすぎない。
私は灰色の雲間に小さな歌声を響かせる。


野原に出かけなくては。
ミューズは森の中にいる。
彼女は静けさを望んでいる。


地球はある彗星と太陽が衝突して出来たものだという記述を、
私はどこかで読んだことがある。
彗星は太陽から幾つかの小片をもぎとった。
だから惑星は太陽のかけらと言うわけだ。
そこで私は、人間の方は、
ある至高で無限の英知から切りとられた
かけらにほかならないのではないかと想像してみる…』


星達がひしめきあっている。
・・幻想が生まれる。・・太陽は沈んだ、
魂の内なる太陽、芸術の太陽が昇る。
・・・・よろしい、絵が一枚出来上がった!




解説ヴァイヴァン「新装版・25人の画家」-3コロー】より

コロー
コロー
隠岐 由紀子




■補足
Jean-Baptiste Camille Corot(1796-1875)
カミーユ・コローは、19世紀フランスの画家。
数多くの詩情豊かな風景画を残しています。
代表作に『ヴィル=ダブレーのカバスユ邸』『モルトフォンテーヌの思い出』など。


【コローの複製画】
名画ドットネット
コロー「ヴィル・ダヴレー風景」【名画ドットネット】
コロー『ヴィル・ダヴレー風景』